数学して幸せを見つける

数学に取り組む事で解決の糸口を発見したり、別の見方ができるようになったり、幸せに向かう考え方を見つけよう。

数学教育における人格教育

タイトルが重い。

学校で数学を勉強する中で、「人を育ていく」という考え。

「なぜ数学を学ぶのか」 

mathpsychology.hatenablog.com

の  陶冶目的になると思う。

数学ほど知識量の少ない科目はないと思う。

単語や記号、歴史的事項や実験結果など 覚える単語や事柄が極端に少ない。

知識の多寡に左右されない(他教科に比べて)のが数学教育だと思う。

難しいの抽象化、抽象化された概念を使っていく。

数学が哲学に入っていた遠い昔のことを考えると、一人で深く考えるのは内的世界を突き詰めていく成長だろう。

そこまで突き詰めていかない多くの人々にとって、数学はどう役に立つのか。

 抽象化やその概念の操作を個人で行うばかりではなく、教師や仲間などとの関わりから進めて行く。そのときのやり取りが「人を育てる」と思う。

 やり取りには、相互信頼が必要になると思う。安心して聞ける、伝えられる。

 最初は、先生から「隣に教えなさい」「隣に聞きなさい」といわれて始める。

 でも、先生からの指示で、その関係は深まっていく。

  • 「分からない所がわかるだけでも進んでいる」
  • 「できなくても、分かろうとする努力は認められる。関心があると評価できる」
  • 「教えることで数学に対する深い理解が得られる」
  • 「難度の高い問題程、説明が求められる」(数学的に構造の理解が必要)
  • 「言葉で説明」(どこにつまずき、どう説明するのがいいのか)
  • 「言葉ではなく、ワンポイントコメントでアドバイス」(文章で整理する)

人格教育と書くと重々しいが、

相手を思いやる気持ちと方法、そして気持ちを伝えること。それを行えるようにするのが人格教育だと思う。立派な人、善良な市民、清廉潔白な人など手本になるような人を目指すことだけではないと思っている。

と考えると、教え合いの中での相手への配慮は、先生対みんな、みんな対みんな、小グループ、隣同士、どんな場面でも相手が誰でも人格教育に繋がる。

そうならないのは、その場の雰囲気だと思う。これが、ややこしい。同じ学級でも、子どもたちの気分に左右されたり、授業者の力量がや準備が不十分で未消化で終わったり、コンスタントに教え合いができる方法や力量を持ちたい。